マリカ第一弾: ハイズラーンとズバイダ
- History
文:トム ・ ベルデ
絵:レオノア・ソランズ
インドネシアからパキスタン、キルギスタンからナイジェリア、セネガルからトルコに至るまで、今日ではイスラム教徒が人口の大多数を占める国々においても、女性が大臣などを含め高い位に任命・選出されることはそう稀なことではありません。 過去においてもそう言えます。
イスラム教の出現まで14世紀以上遡ってみると、マリカ(女王)から権力を持った助言者まで、支配者階級には女性が大勢いました。 生まれながらにして支配するようになった女性もいれば、夫が無能であったり、男性の後継者が若すぎるなどして、摂政として権力を得た女性もいました。 洞察力の高い支配者や勇気ある司令官としての才能を発揮した女性もいましたし、男性の支配者をだめにして自身の失脚の種をまいてしまった女性もいました。
この6部から成るシリーズでは、イスラム王朝、帝国、カリフにおける著名な
女性指導者の幾人かを取り上げます
まずはバグダッドのお話です。
ハイズラーン(Khayzuran)の話は、ぼろきれから富、捕らわれから主権とも言うことができます。 預言者ムハンマドの死から100年少し経った8世紀中ごろにアラビア半島の南西部に生まれたハイズラーンは、まだ子供だった頃に奴隷商人に誘拐されました。 758年と765年の間のいずれかの時期に、彼女はマッカでほかでもないバグダッドの創設者でアッバース朝のカリフ、アル=マンスール(al-Mansur)に売られました。後に彼女は、マンスールの息子で後継者のアル=マフディ(al-Mahdi)と結婚することになります。
彼女は、アル=マフディに娘一人と息子2人を生みます。どちらの息子もカリフとなりましたが、そのうちの一人は、著名なハールーン・アッ=ラシード(Harun al-Rashid)です。 789年に彼女が亡くなるころまでには、彼女の年収は1億6千万ディルハムに達していました。10世紀の歴史家であるマスウーディー(al-Masudi)によると、これは州全体の収入の約半分にも上った、ということです。 歴史家のナビア・アボット(Nabia Abbott)は、彼女の個人的な資産により、彼女は「疑いなく息子のカリフ・ハールーン・アッ=ラシードに次ぐ存在となり、当時のイスラム世界において最も裕福な人物となった」と述べています。アボット著の「バグダッドの2人の女王: ハールーン・アッ=ラシードの母と妻(Two Queens of Baghdad:Mother and Wife of Harun al-Rashid)」は、中東の女性学において非常に影響力の強い作品となっています。
ハイズラーンが政治的な権力を得ることができたのは、今日の民族国家に先立つ長い歴史における数多くの女性たちと同様に、王宮のハレム、つまり女性の居室を通じてでした。 アル=マフディのお気に入りだった彼女は、高い信頼を得ており、アル=マフディのいとこで最初の妻であったリタ(Rita)と競い合い、時には彼女を上回ることができました。リタの出生はハイズラーンとは正反対で、 彼女はアッバース朝の創設者、アブ・アッバス・アブドゥッラー(Abu Abbas Abdullah)の娘という高貴な生まれでした。
アッ=タバリー(al-Tabari)の傑作で9世紀の「預言者と王たちの歴史(History of the Prophets and Kings)」の中では、アル=マフディのハレムの最初の女性に関し、 「この年(775年)、アル=マフディは女奴隷…であったアル=ハイズラーンを開放して彼女と結婚した」と短く記載されています。 現代の歴史家であるヒュー・ケネディ(Hugh Kennedy)は、カリフが同じ階級の女性と結婚することを期待されていた時代に、ハイズラーンを王妃の地位に高めたことは、「慣習を大胆に破る」ことであったと述べています。
中世アラビアの年代史が示す通り、当然のことながら、このことにより王宮では陰謀が企てられるようになりました。 アッバース朝の高貴な生まれの女性たちは、ハイズラーンを軽蔑していましたが、それでもハイズラーンの内から出る優雅さにより、彼女たちはお高くとまった態度を変えていったと言われています。 歴史は、リタとハイズラーンの間に直接的な緊張感があった証拠を何も示していませんが、リタの息子たちは考慮されることもなく、ハイズラーンの息子であるムーサー・ハーディ(Musa Hadi)とハールーン・アッ=ラシードがカリフの後継者として指名されたという事実からすると、リタがハイズラーンに「対抗することの無意味さを暗黙に悟っていた」のではないか、とアボットは推測しています。
アボットはハイズラーンを「葦のようにスレンダーで優雅であった(ハイズラーンはアラビア語で葦の意)」と描写していますが、彼女の成功は決して美貌によってのみ手に入れたものではありませんでした。 彼女は聡明で、自由自在に詩を引用し、著名な学者らの下でコーラン、ハディース(ムハンマドの言行録)、法律を熱心に勉強しました。
ハイズラーンの物語は、ぼろきれから富、と言っても過言でないものですが、一方のズバイダは巨万の富の下に生まれました。
彼女はいたずら好きで、アル=マフディとユーモアのセンスを共有していたとも言われており、カリフであったマンスール(al-Mansur)の気分の浮き沈みを個人的にからかったりしたそうです。 しかし、政権ということになると、仕事一筋でした。 785年のマフディの死に続くハーディの即位に関してアッ=タバリーは、「[長男ハーディの]カリフ政治の始まりにおいて、ハイズラーンは息子に相談することなく、すべての物事において権力を行使し、規定や禁止の制定においても独占的な力を振りかざした。ちょうど夫に対して行っていたのと同様であった」と述べています。
新カリフは、母の独占的支配に苛立っていました。 これは、ハーディがハイズラーンの期待に応えることができなかったか、または母が長年に渡って 弟ハールーン・アッ=ラシードをひいきしていたことにハーディが腹を立てていたためであると考えられています。 この対立は長くは続きませんでした。 ハーディは翌年亡くなりました。 (ハイズラーンがハーディに毒をもったといううわさが流れましたが、そのような正式な記録はありません。) ハールーン・アッ=ラシードは、モロッコからペルシャに渡って領土を持つ帝国のカリフとなり、アッバース朝の全盛期を築きました。 789年に母が亡くなると、彼女の棺をはだしで担いで泥の中を歩き、母の死に対する深い悲しみと献身を表したと言われています。
歴史はハイズラーンの政治的功績を詳細に記録していませんが、硬貨には彼女の名前が刻まれ、宮殿には彼女の名前がつけられ、後のアッバース朝の支配者らが葬られた墓地にも彼女の名前がつけられていることは、彼女のステータスのみならず、市民に対する貢献をも証明するものとなっています。 彼女はこの市民的義務感を、ズバイダとして歴史に名をとどろかせたアマトル=アジーズ(Amat al-Aziz)に引き継ぎました。
ズバイダはハイズラーンの姪であり、ズバイダがハールーン・アッ=ラシードに嫁いでからは、ハイズラーンの義理の娘となりました。 子供時代に「ぽっちゃりしていたことにちなんで」ズバイダ(「小さなバターボール」の意)という愛称を付けたのは、彼女をかわいがっていた祖父のマンスールだった、と13世紀の伝記作家イブン・ハリハーン(Ibn Khalikhan)は述べています。
同作家によると、大人になった彼女は、「慈善を十分に行い、その行動は立派なものだった」といいます。 また、彼女の部屋では、100年の奴隷の少女たちがコーランを暗唱して毎日10分の1ずつ朗読する仕事が割り当てられており、宮殿にはミツバチの羽音のように絶えずコーランが響いていたと言われています。
アッバース朝全盛期の栄華を極めた時代に生まれたズバイダは、非常に贅沢な趣味を持つようになりました。 11世紀にアッズバイル(al-Zubayr)が書いた「贈り物と珍品に関する本(Book of Gifts and Rarities)」によると、当時の「富んだ著名人のライフスタイル」の1つとして、ズバイダの結婚式の費用は、「[イスラム]時代にはもう二度と起り得ない」レベルであり、5千万ディナールに上ったということです。 (バグダッドの平均的な家庭の1年の生活費は、約240ディナールです。) 結婚式の目玉となったのは、花嫁が着たルビーと真珠で覆われたウェストコートで、「その価値を推定することは不可能」であると言われています。また、招待客には、銀のボウルに入った金のディナール、そして金のボウルに入った銀のディナールが配られました。
マスウーディーによると、ハイスタイルの流行を作り出していたズバイダは、「宝石を刺繍したスリッパ、アンバーグリスから作ったキャンドルなどを取り入れた最初の人物で、その流行が一般大衆に広まっていった」と言うことです。 国の行事の際には、「宝石とドレスの重さでほとんど歩けず」、召使らに支えられている必要があった、と言われています。
彼女は、公的な仕事にも同様に寛大に資金を費やしたため、後世までその名を残すことになりました。
彼女は、公的な仕事にも同様に寛大に資金を費やしたため、後世までその名を残すことになりました。 彼女はマッカに少なくとも5回は巡礼に訪れました。805年、5回目の巡礼の際には、干ばつが民衆を打ちのめし、ザムザムの聖なる泉が干上がってしずくがしたたる程度になっているのを見て、非常に心を痛めました。 ズバイダは、泉をさらに深く掘るよう命令を出し、200万ディナール近くを費やしてマッカやその周辺の州における水供給を改善したと言います。
この一環として、東に95キロ離れたフナイン(Hunayn)の泉から水路を建設したり、メッカ巡礼における儀式的な場所の1つとなっている、アラファト平原の「ズバイダの泉」を建設したりしました。 イブン・ハリハーンによると、技術者らが技術的な問題はさておき、かかる費用について彼女に助言すると、彼女は「つるはしの一振りが1ディナールずつかかったとしても」その事業を実行することを心に決めている、と答えたと言うことです。
マッカ以外にも、その時代の最大の公共事業ともいうべき、1,500キロに及ぶダルブ(道路)の建設にも出資を行いました。この道路は、バグダッドの南クーファからバグダッドへと続くもので、一定の間隔で給水所が設けられ、旅行者が夜に道しるべとできるように丘の上には灯台が作られました。 彼女と同時代に生きた歴史家のアズラキー(al-Azraqi)は、「マッカの人々および巡礼者らは、自分たちが生きていることを、神の次に[ズバイダ]に感謝し」たと述べています。巡礼者らが「ズバイダに神の祝福を」と叫ぶ声が何世紀にも渡って道路に響き渡っており、この道路はいまだにダルブ・ズバイダと呼ばれています。 (この道路は、巡礼者がラクダのキャラバンではなく鉄道、自動車、および飛行機を使用するようになって、次第に使用されなくなりました。)
813年、ズバイダは公衆の利益を自身の骨肉に優先させ、非常に苦しい決定をすることになります。自分の息子であるカリフ・アル=アミン(al-Amin)が手を付けられないまでに腐敗してしまったため、ついにカリフを義理の息子であるマアムーン(al-Ma'mun)に引き継がせることにしたのです。 彼女の本能は的中し、教養のあるマアムーンは博学で公正な支配者となり、バグダッドのシンクタンク、バイト・アル=ヒクマ(知恵の館)を創設しました。このシンクタンクは、ギリシャ、ローマ、および他の古典のアラビア語翻訳の中心地となり、アッバース朝の知的環境について伝えるのみならず、後にはヨーロッパのルネッサンスの土台ともなっていきました。
ズバイダは831年に亡くなりましたが、影響を与えた女性としての彼女の名声は、歴史上にも文学にもいまだに生きています。 夫であったハールーン・アッ=ラシードは、「アルフ・ライラ・ワ・ライラ(千夜一夜物語)」の主人公となりました。架空の人物であるシェヘラザードの実在のモデルとなったのはズバイダだったのです。
「マリカ」シリーズの絵担当: アナ・カレーニョ・レイバ(Ana Carreño Leyva);文字: ソラヤ・シャヒド(Soraya Syed);ロゴグラフィック: ムクタール・サンダース(Mukhtar Sanders)(www.inspiraldesign.com)。
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