1521年秋、オスマン朝の州であったボスニアに新しい総督として任命されたガジ・フスレブベグ(Gazi Husrev-beg)は、イスタンブールからついたばかりの派遣隊の先頭を切って、ミリャツカ川沿いをサラエボの町に向かっていました。

この任命は、彼のいとこであったスルタン・スレイマン1世(「壮麗帝」)からのプレゼントでした。スレイマン1世は、この41歳の将軍、フスレブベグ(Hoos-rev-bey、接頭辞のbeg(ベグ)は英語の「Sir」のような敬称)を最も信頼のおける陸軍将校および外交官として認めていたのです。

この新総督は、カレヴァ・ジャーミヤ(Careva Džamija、皇帝のモスク)の東にあるミリャツカ川(Miljacka)に架かる石橋を渡ってサラエボに入ったのでしょう。皇帝モスクは、彼の前任者でサラエボの創設者であるイーサ=ベグ・イサコヴィッチ(Isa-Beg Ishaković、ih-sha-ko-vich)によって建設された最初の建造物の1つです。 背後でガタガタときしんでいるびっしり積まれた荷物の中には、フスレブベグのたくさんの本や写本がありました。彼は、その中の一部を最終的に後世に遺贈することにしました。 時が経つうちに、彼の遺産はイスラム教の写本・資料を所蔵したバルカン半島における最大の図書館へと成長していきました。トルコ国外においては最も広範囲に及ぶオスマン帝国のコレクションを有し、ヨーロッパ全土においても最大規模の図書館の1つとなっています。

サラエボの人々は、皇帝橋(Emperor's Bridge)を渡って北に進みます。これは、ヤヒッチと彼のチームが狙撃手の銃弾をくぐって通っていったのと同じルートです。 1935年から1992年まで図書館の拠点となっていた皇帝モスクは、その背後に立っています。

約5世紀後の1992年、フスレブベグが遺産を託した学者らの中に、ムスタファ・ヤヒッチがいました。彼は後に図書館の館長となりましたが、数人の同僚らとともに橋の南側のたもとに用心深く近づきました。 図書館の貴重なコレクションがつまった箱を文字通りにも象徴的な意味でも心臓の近くにかかえ、彼らは生きて川を渡る確率を計算していました。 周りには建物や丘があり、セルブ人狙撃手らが大通りに出てくる人に照準を合わせて銃撃を行おうとしていました。ここは、1992~1995年のセルビア包囲において、「狙撃手通り」として知られていたのです。 今日生き延びることができれば、また行うのです。 そしてそれを繰り返し、それから3年以上に渡って、包囲された都市を逃げ回りました。

ヤヒッチと同僚らは、自分たちの町、そして新しく独立した国の文化的遺産を守るため、敢えてこのような危険を冒したのです。 多民族国家であったユーゴスラビアが崩壊したことにより1992年3月に設立されたボスニア・ヘルツェゴビナは、すぐに戦場と化しました。 サラエボでは、イスラム教徒のボスニア人とカトリック教徒のクロアチア人の両方が、近隣のセルビアから支援を受けた国家主義的な正統派セルビア人の攻撃の的となっていました。 サラエボだけでも14,000人近くの人々が犠牲になりました。そのうちの5,400人は民間人でした。セルビア民間軍は、組織的にボスニアの文化遺産を攻撃しました。1992年8月までには、サラエボの大きな図書館であった国立図書館とオリエンタル・インスティテュートの2つが灰になってしまいました。

ヤヒッチは、ガジ・フスレブベグ図書館の遺産が同様の運命をたどるのを防ぐことを決意しました。 図書館への献身の念、そしてボスニアの知的歴史へのコミットメントを同じくする他の人々の助けを借りながら、彼は戦争の間中、1つの隠し場所から別の隠し場所へと蔵書を運搬し続けました。そして2014年、それらはついに、ガジ・フスレブベグが建設した元の場所の近くに建てられた新しく安全な建物に終の棲家を見出したのです。

これが彼らの話です。 本と知識を必要不可欠な遺産とみなした男性と、その両方を救うために命をかけた男性の物語です。

ガジ・フスレブベグが総督邸に着いた年、サラエボはオスマン帝国の記録ではカサバ、つまり村より少し大きくてセヘル(都市)より小さい地域として分類されていました。 1462年にイサコヴィッチによって創設された同都市は、中世のボスニア王国であったヴフルボスナ(Vhrbosna)の領土内にありました。同国は、10年前にオスマン帝国により制圧されました。 山々に囲まれてよく防備が施され、ミリャツカ川の水源も豊富であったにもかかわらず、同都市は、渓谷の町を取り囲む同様の山々を登ることのできる侵略者からの影響を受けやすいという弱点を抱えていました。 それでも、その戦略的な位置は、歴史家のロバート J. ドニア(Robert J Donia)が「ベネチア、そしてハプスブルク君主国との変わりゆく国境」から徒歩圏内と描写している通り、オスマン帝国が「ルメリア」、つまりバルカン地域への拡大において商業的、行政的、そして軍事的に重要な中心地となりました。

「書き記されたものは存続するが、記憶されたものは消滅していく。」

-ムラ・ムスタファ・セヴキ・バセスキーヤ(Mula-Mustafa Ševki Bašeskija)
Ljetopis o Sarajevu 1746-1804 (サラエボの年代史)

この都市の名前は、サライ (sar-eye、宮中)という語と、イサコヴィッチが大きなオバシ(oh-vah-shee、野原)の近くの川の南側に創設したことをかけ合わせて作られています。そのSarajovašiのスラブ語の発音の短縮によりサラエボとなったのです。 イサコヴィッチは、東のごつごつした岩礁に要塞を建設しました。この場所は、山々の間を抜けて刻んできたミリャツカ川の河口、都市の自然の門となっていました。 崩れかかったこの石の要塞跡、そして後のオスマン帝国時代の要塞は、サラエボの森林に覆われた高地に壊れた歯のようにいまだに残っています。

20年以上にも渡って、サラエボをセヘルにまで成長させたのは、他でもないガジ・フスレブベグでしたこの中年の外交官総督が生まれたのは、この仕事のためだったと言っても過言ではないでしょう。 1480年にギリシャのセレス(Seres)で生まれたフスレブベグは、地元のオスマン帝国総督、ボスニア生まれのフェルハトベイ(Ferhad-bey)と、皇帝バヤズィト2世の娘であったトルコ人の母、サルタナ・セルクカ(Sultana Selçuka)の間に生まれた息子でした。 母が皇帝一家の出身であったため、彼はスレイマン大帝の最初のいとことなりました。 ボスニアのエヤレット(州) (現在のボスニアおよびヘルツェゴビナとほぼ同じ)における総督としての在職期間中、サラエボは、サロニカ(Salonica)、エディルネ(Edirne)に次ぐヨーロッパ第3の都市となりました。 この時代は、サラエボの「黄金時代」と呼ばれています。

ドニアは、州都を「オスマン文明の表明」へと変革していく過程で、フスレブベグは帝国の基本的な青写真を使用した、と述べています。 マハラと呼ばれる居住地域に分け、その中心には崇拝の家を置きました。 フスレブベグの到着の前には、サラエボにはイスラム教のマハラはたった3つしかありませんでしたが、フスレブベグが統治するようになってからは、その数は50にまで増えました。 17世紀の始めごろまでには、その数は100近くとなりました。様々な宗教が混在するこの都市には、少数ではありますがキリスト教やユダヤ教のマハラも存在しました。

上: 25,000冊の蔵書を誇るガジ・フスレブベグ図書館には、数世紀昔のエンボス加工レザーカバーがついた美しく装丁された本が多く見られる。 その中心は、ガジ・フスレブベグが1521年にボスニア(現在のボスニアとヘルツェゴビナ)の総督としてサラエボに派遣された時に持ってきたもの。 右下: 1992年5月16日、セルビア人国家主義者らがインスティテュートを爆撃し、焼けてしまった本を呆然と見つめるサラエボのオリエンタル・インスティテュートの前ディレクターであるレイラ・ガジッチ(Lejla Gazič)。 彼女は、今でも彼らがなぜ図書館を攻撃したのか理解しようとしています。

サラエボの商業的、および文化的活動の中心は、ちょうど川の北側にあったバスチャルシーヤ (Baščaršija)、つまり市場でした。 イサコヴィッチもフスレブベグもベジスタン保護された市場)を建設しましたが、今日でも最もにぎやかな大通りとなっています。 オスマン帝国時代の名残を多く残したバスチャルシーヤでは、ボスニアのサッカー用ジャージからペルシア絨毯、通りで集めた使用済み弾丸カートリッジで作ったボールペンなどの包囲後のノベルティなど、様々なものが販売されています。 全長が5ブロックに及ぶガジ・フスレブベグの建設したベジスタンは、中でも最大のものです。

オスマン帝国時代には、旅する商人はハンカラバンセライ、karavan-sarajとも呼ばれた)に宿泊しました。 基本的にはビジネスホテルでしたが、運搬用の動物の積荷を下ろして世話をするための中央の庭があり、その上の部屋では無料の食事が出され、商人らは最大3日間宿泊することができました。 フスレブベグが建設したカラフルなモリカ・ハン(Morica Han)を含め、ハンの多くは、今日でもレストランなどとして使用されています。 木々が木陰を作る中庭では、旅行者らがお茶やミルキー(ベージュ色のボスニア・コーヒー)を飲みながら楽な絨毯の上でおしゃべりに興じ、陶器の商人が歴史的建造物の改造された馬屋で商売を営んでいます。

都市の文化的、経済的、宗教的組織、つまりマハラ、モスク、ハンなどの多くは、アラビア語のワクフ(waqf)を採用した語であるバクフ(vakuf)と呼ばれる慈善寄付によって支えられていました。 バクフは、裕福なパトロンらが寄付するものです。それらパトロンの多くは、フスレブベグのように何年にも及ぶ軍事活動の後に富を蓄えた(戦利品であるという人もいる)高位の軍関係者です。 ボスニアのバクフすべての中でも、フスレブベグは最も裕福で最も大規模な富豪でした。 マハラ、ハン、ベジスタンに加え、総督はハンマン(銭湯)、イマレット(無料食堂)、ハニカ(スーフィー教の研究センター)、マドラサ(学校)も建設しました。学校は、彼の母親の名前にちなんでセルユクリア(Seljuklia)と名付けられました (その屋根は鉛―トルコ語でクルサム、kuršum―でできているため、地元ではクルシュムリヤとして知られており、今でもボスニアおよびヘルツェゴビナにおける現存する最古のマドラサとなっています。)

それらすべての中心に、フスレブベグはモスクを建造しました。今では彼の名前が付けられています。 すっと伸びた尖塔、ドームが重なった屋根のライン、時計塔などが美しく配置されたこのモスクは、ボスニアおよびヘルツェゴビナにおける最大の歴史的モスクであり、バルカン地域におけるオスマン帝国のイスラム建築の最も美しい例であると評されています。 バスチャルシーヤの中心からそびえたつムスクは都市のシンボル、およびサラエボの―そして国全体の―イスラム教コミュニティの中心地となっています。イスラム教徒は、現在同国の人口の約40%を占めています。 (ギリシャ正教徒31%、カトリック教徒15%と続きます。)

よって、フスレブベグの統治下で、サラエボがこのバクフの恩恵を受けつつこの総督の信念を都市的に反映してきたのです。

2014年に開館した新しガジ・フスレブベグ図書館の東には、図書館の最初の建物で、フスレブベグが建設した16世紀のムスク兼マドラサがあります。 サラエボ包囲の期間中は狙撃手が潜んでいた都市を取り囲む丘は、サラエボの古い都市を移したポストカードの背景となっています。

フスレブベグは、バクフの寄付許可書の中で、「善い行いは悪を追い払う。善い行いの最も価値あるものは慈善であり、慈善の最も価値あるものは永久に存続する」と書いています。この文書は、現在のガジ・フスレブベグ図書館のアーカイブに展示してあります。

この原則を念頭に置き、1537年、フスレブベグは、学校の許可書の中で、「建設の費用から残ったお金はすべて係るマドラサで使用する良い書物の購入に使用するものとする。それらの書物を読む人々によって使用され、研究に関わる人々によって写本が製作されるようにするためである」と命じています。

これらの条項に従って購入された本は、フスレブベグが寄付した写本などと共に図書館設立時に同図書館に収められ、蔵書は瞬く間にふくらんでいきました。 それら注目すべきコレクションの中には、哲学、論理学、文献学、歴史、地理学、東洋の言語、純文学、薬学、獣医学、数学、天文学などに関するものがありました。 寄付されたものもありましたが(個人図書館全体が寄付されたこともありました)、マドラサやハニカの白塗りの部屋で作業に励んだ写字生がフスレブベグの指示に従って写した写本も多くあります。 数メートル離れたところのムゼリーティ(Mudželit、製本通り)では、1530年台に小さな製本業者として始まったものが、大規模な書籍市場へと成長しています。オスマン帝国で最も生産性の高い文学の中心、および知的中心地としてサラエボが成長したことを反映したものでしょう。

「これらの宗教的総合施設は、モスクしかないということはほとんどありませんでした。 いくつもの建物があり、初めから教育的目的で建てられたものもありました」と語るのは、ボスニアおよびヘルツェゴビナの文化的過去を研究する研究センター、ボスニアック・インスティテュートの学者、アーメド・ジルジッチ(Ahmed Zildžić)です。同組織は、美しく復興されたガジ・フスレブベグのハンマンに本部を構えています。 彼は、「ですから、小さな図書館かマクタブ(maktab、事務所)のようなものがあって、[クリスチャンの]日曜学校のような役割をしていました。イスラム教に改宗したスラブ人に読み書きを教え、それらの人々は東洋の言語で読み書きができるようになっていったのです」と語ります。

パックス・オットマーナ(Pax Ottomana、オスマンの平和)の広範囲に及ぶリソースを最大限に活用し、これら有望な若い学者らは帝国のあちこちへと旅して、有名な学問の中心地で勉学を極めていきました。 イスタンブール、ダマスカス、ベイルート、カイロ、バグダッド、マッカ、メディナなど、様々な地に赴いたのです。 ボスニアに帰国する際には、アラビア語、オスマン・トルコ語、ペルシャ語の書物や写本を持ち帰りました。それらすべてがボスニアの文学的遺産を豊かにし、ガジ・フスレブベグ図書館などの図書館の蔵書が充実したものとなっていったのです。 また、貿易により取得した書籍や写本、またはハッジ(マッカへの巡礼)を終えた人々が持ち帰ったものなどもありました。 多くの場合、これらの輸入された作品はボスニア語に翻訳され、地元の学者らは自身のボスニア的イスラム学の作品を生み出していきました。アラビア哲学、イスラムの法律、コーランなどに関する学術論文や解説などで、自分の母国語で執筆されていました。 これらの言語資料が増えてくると、ボスニア文化の宝庫としてのサラエボの評判も高まりました。ジルジッチは、「文化的、学問的に最も重要なルメリアの中心地となっていった」と語っています。

もちらん、これら文学の宝が危険にさらされたのは、1992年が初めてではありませんでした。 1697年、ボスニアに向かっていたハプスブルクのオイゲン・フランツ・フォン・ザヴォイエンは、ボスニアが降伏しないのであれば、サラエボを含む「すべてを火と剣で滅ぼしつくす」ことを誓っていました。 その言葉通り、その軍事日誌の中には、「我々は都市およびその周辺地域に火で焼き尽くした」と記録されています。 これら「オーストリアの異教徒」は、匿名のサラエボ人が報告している通り、都市のイスラム教関連組織の破壊に特に力を入れていたようです。 「彼らは、書物やモスクを焼き尽くし、ミフラーブ(メッカの方向を示す寺院内のくぼみ)を破壊し、美しいサラエボの町を片っ端から破壊していった」と報告されています。

19世紀後半には、都市全域に及ぶ火災が多くの建物を焼き尽くし、これにより、ドイツ人建築家らがサラエボをオーストリア=ハンガリー帝国の色に染めていく準備が文字通り整ったのです。1885年、フランツ・ヨーゼフ1世の支配下で約33年に及ぶ同国の支配がはじまりました。 (この初期現代化における形式上の唯一の例外と言えるのは、1894年に建築されたムーリッシュ・リヴァイヴァル様式の市役所で、後に国立図書館となりました。)

この時期において書籍の焼却より有名になった出来事は、1914年6月28日、皇帝橋のわずか数メートル西のラテン橋(Latin Bridge)のたもとで、オーストリアのフランツ・フェルディナント大公と妻のゾフィー・ホーエンベルク公爵夫人が暗殺されたことでしょう。 この事件により第一次世界大戦が勃発し、皮肉にもサラエボの大部分は開放されることになりました。しかし、第二次世界大戦においては、ドイツ軍と連合軍の両方による爆撃に苦しみました。

それでも、ガジ・フスレブベグ図書館は大きくなっていき、拡張のために移転する必要が生じたほどでした。同図書館は、第二次世界大戦の前に2度ほど移転しています。 最初の移転は1863年で、通りをはさんだガジ・フスレブベグ・モスクの尖塔の地下に意図的に作られた部屋でした。 1935年までには、このスペースにも入りきらなくなり、川を渡った対岸の皇帝のモスクの隣にあったムフティのサラエボ・オフィスの地下にあった部屋でした。 時が経過し、ムフティ(都市の一流のイスラム教学者)がその建物全体から退去したため、増え続ける蔵書が保管できるようになりました。

包囲の期間中、"図書館の安全な場所"から別の場所へと書籍を運搬するため、ヤヒッチと彼の仲間たちはよくバナナの箱を使いました。今でもサラエボの屋外書籍市場では書籍の保管や移動にバナナの箱が使われています。

1990年台の始めまでには、ガジ・フスレブベグ図書館はバルカン地域における最も貴重な図書館となっており、アラビア語、ペルシャ語、オスマントルコ語、アラビア文字で書かれたボスニア系スラブ語(アレビカまたはアルジャミアードとして知られる)の10,000に上る写本を有するようになりました。 その最も貴重な最古の写本は、著者ガザーリーの生前、1105年に作成されたの「宗教諸学の再興(Ihya'ulum al-din)」の写本でしょう。 別のものとして、15世紀のペルシャ人古典作家、ヌールッディーン・‘アブド・アッラフマーン(Nur al-Din Abd al-Rahman)が1575年にマッカで執筆した教訓的詩である「Tufhat al-ahrar(貴族たちの贈り物)」があります。これは、非常に美しい文字で描かれています。 また、美しく装丁されたコーランの写本もあります。これは写字生が手本として使用していました。 これら美しく製作された写本の多くは、エンボス加工のレザーカバーに入れられており、アズール色、金色、レンガ色のインクで美しい装飾文字や装飾的な縁取りが描かれているのが特徴です。

25,000に及ぶ蔵書の中には、多作のボスニア人著者が東洋の言語で書いたもの、ボスニア語の最古の書籍、ハンガリー生まれで1674年~1745年の彼の生涯においてアラビア語の活版印刷を行った最初のイスラム教徒であるイブラヒム・ミュテフェッリカによる初期の書籍など、印刷された最古の作品(18世紀半ば)もあります。 図書館の定期刊行物コレクションには、ボスニア最古の新聞、現在過去を問わずボスニアで発行されたイスラム系新聞および刊行物ほとんどすべてがあります。1866年から1878年までの間、州の公式新聞であったボスナ(Bosna)もほぼすべてそろっています。 加えて、約5,000のオスマン帝国のフィルマン(国王令)、ベラット(勅許)、 シッジルとして知られる地元の裁判記録、デフター(税の記録)、写真、ちらし、ポスターなどがあります。

「国勢調査記録、課税台帳、政治に関する記録などは、 イスラム教徒のみならず、バルカン地域における宗教、または民族グループに関して研究したい場合には、非常に貴重な情報源となります」とジルジッチは語ります。

ボスニア戦争に先立って、これら貴重なリソースに国立図書館、およびボスニア・ヘルツェゴビナ大学図書館(University Library of Bosnia Herzegovina)の蔵書が加えられました。同大学は、オリエンタル・インスティテュートの近く、川のわずか上流の前市役所にあり、1950年に創設されました。 これら2つの施設には、合計で200万冊の蔵書、300,000の原書、および5,263の写本(製本写本コレクション)がありました。 ガジ・フスレブベグ図書館を含め、これら全体の貴重な資料は、ボスニア文化的および知的遺産の魂と行っても過言でなありませんでした。これらは、都市の数平方キロメートルの範囲に集中して保管されており、攻撃の矢面に立たされていました。 この危険にいち早く気付いたヤヒッチは、先手を打って、ガジ・フスレブベグ図書館の蔵書を川の対岸にあったムフティのオフィスから元の場所であったクルシュムリヤに移しました。この場所の方が安全であると考えたのです。

: サラエボは今でも愛書家の都市です。 ここでは、住人も訪問者もラマダンのブックフェアを眺めています。 右下: サラエボの商業および文化の中心であるバスチャルシーヤのベジスタン (市場)のお店のウィンドウを飾る観光客用のお土産。

彼の判断は正しいものでした。 1992年5月16日の夜、攻撃がはじまりました。皇帝のモスクから数ブロックしか離れていないところでした。

その夜、オリエンタル・インスティテュートに行われた一斉射撃は、人々のみならず、その思考、考え、文化的アイデンティティに対するものでした。 共産主義後のユーゴスラビアから統一された単一国家の形成を模索し、セルビア人国家主義者らはボスニアを、そしてヘルツェゴビナのボスニア的およびクロアチア的文化を一掃することを決意していたのです。

3年に渡るサラエボ包囲は、近年の戦争史において最長の首都包囲となりました。 周りの山々に陣取ったセルビア人は、昼夜となくサラエボに砲弾を浴びせました。 爆撃が一時的に止むと、狙撃手が辺りを見回し、混沌の中で食糧や水や燃料を探して通りにさまよいでてくる住人を待ち構えていました。 「Pazite, Snajper! (狙撃手に注意!)」と書かれた張り紙が、壁紙のように貼り付けられていました。 意図的に文化の根絶に焦点を合わせたセルビア人らは、大学の哲学教授らを主な暗殺対象として位置付けていました。 彼らの作品や彼らの先駆者たちの作品も同様にターゲットにされました。 ボスニア人の学者であるアンドラーシュ J. リードルマイヤー(András J. Riedlmayer)は、騒乱から10年後に当時を振り返って、「サラエボ包囲により、現代の歴史における最大規模の意図的な書籍焼却事件が起こりました」と語っています。

5月17日の朝、オリエンタル・インスティテュートを焼いた煙がまだくすぶる中、前ディレクターであったレイラ・ガジッチは現場にかけつけ、できる限り書籍を救い出そうとしましたが、それは消防士らによって阻止されました。 建物が不安定であったのみならず、まだ攻撃対象であったため、セルビア人らが消防士に対して発砲を行っていたのです。 その恐ろしい日について思い返しながら、ガジッチは今でもその出来事について理解しようとしています。

彼女は、「戦争では人が人を殺します。それは理解できます。 でも、本を焼いてしまうなどということは、全く考えられないことです。 本はどんな場所においても、すべての人にとっての共通の遺産なのです。 それなのにどうして本を破壊することができるのでしょうか?」と語ります。

包囲の期間中に失われた書籍は、本棚にして440キロに及ぶと推定されており、「現代の歴史における最大規模の意図的な書籍焼却事件」となっています。

しかし、その想像すらできない出来事よりさらにひどいことが起こっていきました。 3ヶ月後、ガジッチと仲間のサラエボ人らは再び惨劇を目撃することになったのです。8月25日の夕暮れから1時間後、セルビア軍は国立図書館に燐弾の集中砲火を浴びせました。 現場に居合わせたAP通信レポーターであるジョン・ポンフレット(John Pomfret)は、オリエンタル・インスティテュートを破壊した際と同様、丘に潜んだセルビア人兵士らは、「図書館付近にマシンガンによる銃撃を続け、消防士が消火活動をするのを阻みました」と述べています。 しかし、図書館員や住民ボランティアらはそれら銃撃に勇敢に立ち向かい、列を作って、燃え盛る建物から運び出せるだけ書籍を運び出しました。 しかし、熱が建物のスレンダーなムーア様式の柱や屋根に達し、もはや手遅れとなりました。 図書館の貴重なコレクションはなくなってしまったのです。

後に図書館員の1人は、「太陽はほんの煙でかすみ、通りは焼けた紙や灰となった本のページで埋め尽くされていました。それらは汚い黒い雪のように舞い降りてきました。 ページの切れ端を触ると、まだ熱を感じることができました。少しの間は、奇妙な黒と灰色のネガのようになった切れ端に、文字を読み取ることができますが、熱が広がって、ページは手の中で灰となっていってしまうのでした」と語っています。

消防隊長であったケナン・スリニッチ(Kenan Slinič)は、ポンフレットに汗とすすに覆われながら炎から2ヤードのところで命をかけて任務に挑んだ理由について尋ねられ、「私はここで生まれました。彼らは私の一部を燃やしていたのです」と答えました。

ヤヒッチは、この熱い献身の念を理解していました。 戦争が勃発した時に、38歳であった彼は、包囲が始まった期にはガジ・フスレブベグ図書館のディレクターに就任して5年が経過していました。 その苦難の間中、彼の人生で愛情を捧げた2つのもの、つまり妻と子供たちと図書館の間を行き来していました。 それは非常に危険な道中となりました。 彼の自宅は、セルビアの前線からたった500メートルしか離れておらず、家族は日中のほとんどを地下に隠れて過ごしていました。 毎日その7キロの道のりにおいて狙撃手からの銃撃を避けるべく、彼は墓地を通り抜けて行きました。イスラム教徒のとがった墓石よりキリスト教の大きくて平らな墓石のほうが隠れやすいと、その中を中腰で進んで行きました。

都市の何百年という歴史を刻み、西から東へと走るバスチャルシーヤの大通り、サラチ通りには放浪者が群がっています。 新しいガジ・フスレブベグ図書館、そしてクルシュムリヤの元の場所はその近くです。

その状況下において、仕事に献身し、できるだけ今までと同じような日常とするべく、ヤヒッチは図書館の蔵書を学者たちが活用できるようにしました。 しかし、セルビア人が本の場所を知ったことに気付いた彼は、まず蔵書を移動させることにしました。 オリエンタル・インスティテュート、そして国立図書館の爆撃後、同じ運命をたどらないようにするためには、蔵書を移動させ続ける必要があることに彼は気付きました。

ヤヒッチは、「セルビア人の予定表には、ボスニアの文化遺産すべてを完全に破壊することが挙げられていたことを知っていました。 それで、図書館の場所が敵に気付かれないように、私は友人や他の図書館員と連絡をとり、戦争の間中1つの場所から別の場所へと書籍を移動させるのを手伝ってもらっていたのです」と語っています。

1992年から1994年まで、ヤヒッチと忠実に彼を支えてきた同僚ら(図書館の清掃員から夜間警備員まで、ボランティアを含む)は、5ヶ月から6ヶ月ごとに、全部で8回書籍の場所を移動させました。 紛争の間、ヤヒッチは、ガザ―リーや他の珍しい写本などの貴重な文献を町の中心近くのプリブレドナ銀行(Privredna bank)の金庫に保管しておきました。 しかし、1か所から別の場所へと彼と同僚らが手で運んでいた書籍の大部分は、寮を出入りする大学生のように、段ボールのバナナ箱に入れられていました。

最初の隠し場所は、図書館の元の場所であったクルシュムリヤでした。 次の隠し場所となったのは、オーストリア=ハンガリー帝国時代に建設された、隣のより大きな「新しい」マドラサでした。 最も危険な移動となったのは、皇帝橋を渡ってこの場所に書籍を移動させた時だったとヤヒッチは語ります。

橋の中央からごつごつした高地を眺めながら彼は、「この橋は、トレベヴィチ山(Trebević)に潜む狙撃手から見渡せるところでした」と述べました。

次に、周辺から流入してきた難民らがマドラサで寝泊まりする必要が生じたため、ヤヒッチは再び書籍を移動させることに決めます。今回は、何ヶ月も使用されていない地下射撃練習所で廃れていた古い消防署の湿った場所で、貴重な書物の保管場所としては決して理想的とな言えない所でした。 それでも、ヤヒッチは、セルビア軍の1歩先を行くためには、どんな資源でも使う必要があることを知っていました。 1993年には2度の移動を行いました。国立劇場の更衣室へ、そしてさらに消防暑からそう離れていない女子専用マドラサの教室へと移動しました。 その間中、ヤヒッチは敵の目的のさらに先を見据えていました。

図書館は当面は比較的安全であるように見えましたが、いつ何時にも炎に包まれる可能性があることを認識していたのです。 それで、物理的に保存できなくても知的財産としては保存しようと、すべてのコレクションのマイクロフィルムへの記録を開始しました。 これは平和な時期であったとしても気の滅入る仕事ですが、ヤヒッチは度々生じる停電、フィルムの現像に使用する水道の供給停止、適切な機器の不足、そして敵の砲火をかいくぐってやっと手に入れた機器の使用方法に関する知識不足、という数々の問題に対処する必要がありました。 他の図書館員であったら、くじけてしまうか、そもそも開始することさえしなかったことかもしれません。 しかしヤヒッチは、機知に富み熱意にあふれた人物であり、何が危険にさらされているかを完全に理解し、目前にいる反乱者の多くと同様に、地下を活用することにしました。

ヤヒッチは、サラエボ空港の地下に手で700メートルのトンネルを掘った事に言及し、「私たちはこのトンネルからマイクロフィルム装置を密かに持ち込みました」と語っています。 戦争中、個人のガレージからドブリニャ(Dobrinja)の郊外まで続く1メートル×1メートルのこの狭い道は、包囲されたサラエボの400,000人の市民への食糧や日用品を運ぶライフランとなり、都市から安全に抜け出せる唯一の経路を提供しました。

地元のマイクロフィルム技師、そして彼のクルーの助けを得て、ヤヒッチはできる限りフィルムの作成に取り組みました。 可能性は低いと思われていたものの、チームは戦争中2,000の写本のマイクロフィルムの作成に成功しました。

ヤヒッチは、「頻繁に停電になって電気が使えなくなるのが問題でした。それで、電気がない時は、車のバッテリーを電源にしていたんです」と語ります。 必要な水は、ミリャツカ川からくんできました。 その間ずっと、それらの資源もだんだん少なくなっていきました。

ヤヒッチは、「食料、水、木材。 これらは包囲の期間中最も重要だった3つのものです」と述べています。図書館の木製の本棚などの貴重品は、危機に面して燃やすものを求める人々が取っていく最初のものだったと言います。次に町の公園という公園の木が伐採され、公園は切株だらけの広大ながらんとした空間と化していったのです。

左: 包囲の後、昨年不死鳥のごとく開館した総工費900万ドルの図書館の一画にある書籍保存ラボで書類の復元に取り組む職員。 : 展示ケースには、著者ガザ―リーの生前、1105年に作成された「宗教諸学の再興」の最古の写本のファックスが入れられています。

狙撃手がいたこと以外にも、本自体を移動させることが危険であった理由がありました。 ある時、本がつまったバナナ箱を持って爆撃された通りを急ぎ足で歩いていると、ヤヒッチとそのクルーは若い男性の集団に取り囲まれました。 パンなどの日常品でさえ貴重だった当時、バナナは異国の高級品であり、箱にバナナがつまっていると考えたギャング団に目をつけられたのでした。

ヤヒッチは、「でも、箱の中を見て、ただの本だと知ると、地面に投げつけて立ち去りました」と語っています。

もちろん、ヤヒッチも彼のクルーもギャングとの争いに加わることはありませんでした。 燃え尽きていく建物を前に負け戦を戦わなければならない消防士らと同様、彼らも自分たちのしていることが愛国的な任務であるだけでなく、人間として当然すべきことであると見なしていました。

図書館の夜間警備員であったアバス・ルトンバ・フセイン(Abbas Lutumba Husein)は、後に2012年にBBCが作成したドキュメンタリー「The Love of Books: A Sarajevo Story(書籍に対する愛:サラエボの物語)」のプロデューサーに対し、「もちろん、それは自分の命をかける価値のあることでした」と述べています。 今後で移民として生まれ、暴力と紛争に囲まれて成長したフセインは、コーランを読んでから彼の人生は一変したと言います。 彼は、図書館で夜間警備にあたり、書籍を読み、その著書の存在を感じ、その中で平和な気持ちを感じとることで安らぎを得ていました。 彼は、率直に、図書館が「人生を救った」と述べています。 彼は、「書籍なしの人生を送るよりは、むしろ本とともに死ぬ」ことを選んだだろう、と語りました。

ラマダンの断食明けにサラエボの古い黄色い要塞(Yellow Fortress)でピクニックをしようと準備をする家族。静かな日没のパノラマを楽しむ他の町の住人。

1995年に包囲が終わると、図書館は女子専用のマドラサに戻りました。蔵書の保存により消滅の危険を最小限におさえるべく、ヤヒッチは蔵書のデジタル化、マイクロフィルム作成、カタログ作成を続けました。 2013年、カタログ作成が終了し、ロンドンを拠点とするクルアーン・イスラム遺産財団法人(al-Furqan Islamic Heritage Foundation)の支援を受けて発行されました。 現在、図書館のコレクションで最も重要な書籍はすべてデジタル化されています。

1990年台前半、増え続ける図書館の蔵書を収める新しい建物の建設に関する話し合いがすでに行われていましたが、戦争によりそれは延期せざるを得なくなっていました。 最終的に建築家への委託が行われ(サイドバーを参照、向かい側)、カタール政府からの寄付を受けて、2014年には新しいガジ・フスレブベグ図書館が開館しました。 キラキラ光る3階建てのガラスと大理石の図書館は、元の図書館があった場所の反対側に位置し、500,000冊に上る蔵書、閲覧スペース、保存作業スペース、WiFi接続のヘッドセットを完備し最大3カ国語の同時通訳に対応した200席のホールを備えています。 地下には、ボスニアの文学の歴史を展示した博物館もあります。

しかし、このハイテクの建造物の中心には書籍があります。現在は駐在学者として勤務するヤヒッチは、それらすべてを自分の子供のように愛しく感じています。

彼は、「戦争中、私は家族と図書館の両方を救おうとしました。 その過程で、私は本を愛するようになったのです。 強い感情を入れずに本について語るのは、難しいですね」と語りました。